巻頭へ  本巻    Bookガイド ・ 人麻呂 ・ 芭蕉  ・ 暗黒舞踏 現代文学 言語論 ・ サブカルチャー  眠れない夜のマンガ! 

          
   「学問解体のすすめ」 シリーズその一         
       コスプレ原論 
       - 人麻呂と芭蕉を読み解く。


     


         

            総論

            



ここでは、狭義のコスプレ、つまりアニメ、漫画、ゲーム、歌手など、架空の人物やアイドルの衣装を真似るコスプレや、何年か前のベネチアビエンナーレ展におけるおたくを主題とした日本館の展示、そしてまた世界のアートシーンの最前線でたえず新鮮な問題を提起して注目を浴びている森村泰昌のやうな、いわゆるコスプレ芸術等々を直接問題にしようとしているわけではない。しかし、コスプレ原論という以上は、いまのサブカルチャー・そして現代芸術にもつながって、この国の古層精神文化の底流にながれているあるひとつの傾向に、いまのコスプレ現象をもそこからうみだしているはずの一種のオタク的な精神に注目するものである。そこで、それを主題として聖、俳聖としての五百年、千年とその評価にゆるぎない、人麻呂と、芭蕉において、その二人に現代にも通時するオタク精神と、そこにコスプレ衝動の発芽を見ていかんとするものである。

  春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り
  芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな


せまく清潔ともいえない部屋に終日引き籠もり蜂の巣つたふ春雨や、盥(たらい)に落ちる台風の雨垂れの音を楽しみ自慢する。この芭蕉の姿勢は、まちがいなくオタクの心境の極みであろう。また宮廷歌人としての人麻呂の謎おおき人生。そして、そこに暗示されるなにか、もやもやとした不幸も、結局は、つくりだされたあらたなる物語を固定し、維持していこうとはたらく宮廷の権力精神と、ひとたびは、宮廷歌人の「吾(あ)」へとコスプレした人麻呂ではあるが、つねにメタな立ち位置へゆらぎ戻ろうとする彼のオタク精神、その対立葛藤がもたらした結果ではないかとの推察を可能にする。その最初の兆候を

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾(あ)がする

という万葉集第十三巻のなかの有名なことばそのものに、そしてここまで大胆に、直くいい切る人麻呂の心情に伺い知ることができる。大きな物語、大きな神話はもう終焉してしまい、このままでは決してその物語のつづきは語れないのだ。そのフレーズには、そんな人麻呂のメタ的な自覚の深さが、この状況のなかでの自由とは何かという問いとともに織り込まれている。
そこで、人麻呂は"吾(あ)という他者"になり朗々と語りだす。

つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 五百重波(いほへなみ) 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする

この意識の切り替えは、左に定義するように、もはやシリアスな物語が機能しなくなった時、後で言うところの「汎メタ言語」視点を導入することで「他者になりきろうとする」コスプレ行為である。それは、また貫之の

男(をとこ)もすといふ日記といふ物を、女(ゝむな)もして心みむとて、するなり

という土佐日記の設定にも通じていく。


状況
ここで、あたためてコスプレにラフな定義をしておく。
コスプレ
とは、その時代時代のメディアを含め、国家から地域社会のちいさな価値にいたるまで、そして、家族や個人といった前時代神話の総くづれの時代にあって、つぎのシリアスな物語も機能しなくなっている時に、「他者になる」行為である。
人麻呂でいえば、大化改新や壬申の乱、芭蕉では徳川までの動乱にあけくれた時代記憶のシリアスで「おおきな物語り」が解体した時代,さらに、二人は、それが一通りおさまって余裕がでてきた持統期や徳川時代に、それまでの共同体や、自己のおおきな物語りを失い、自意識がもはや所与の物語りのつづきを演じきることができなくなったことを否応なく自覚せざるを得ない時代にあった。そこでいまでいえばコスプレという他者のファッションを身にまとおうとするのだが、ただ、それが、アニメの主人公ではなく、芭蕉にとっては、西行であり、人麻呂では、宮廷歌人としての吾(あ)という他者であったのだ。その際かれら二人に共通するのは、無文字時代からつづく古言を、象徴的にいえば、て・に・を・はを所与の言語活動の流れを変革し、規範するメタ言語として活用したことにある。もう二度と、シリアスな大きな物語りにはならないことを知りながら…。そして、これからの自分の物語りをメタ視点から自覚的に解体しつつ、古言にもとづくあたらしい形式のもと、再解釈された、もはや他者としかいい得ない者の姿へと、自己を企投していったのである。

         作業仮説としての
           汎メタ言語[Panmetalanguage]


○わたくしたちの慣れ親しんでいる「名詞・動詞・目的語・助詞等々」は構文規則を示す文法概念であり、それは自然言語を意味づけ定義するアリストテレス論理学のカテゴリー論に由来する西欧論理のつくりだしたメタ言語である。w3c勧告やメタHTMLがウェブ記述のメタ言語であるのと同義である。


Panmetalanguage
この「名詞・動詞・目的語」というカテゴリーによるメタ言語にかえて、ここでは、説明のために、あくまで作業仮説として、汎メタ言語[Panmetalanguage]という用語を設定した。欧米文脈上のメタ言語とは自然言語の高次概念として、所与の自然言語自体を対象として、一般言語活動を分類、機能分けした概念である。そしてみづからはシステム化された規範として、自然言語を定義する。所謂文法のことである。ただしここでいう汎メタ言語は、メタ言語の記号化や、概念論理にかわるものとして、母語精神にそくした、ひびき、にほひ、俤(おもかげ)という具体的な規範としてはたらきだすものである。ただ、所与のことばを規範するというはたらきではメタ言語の機能と同じ作用をするので、メタより広義の意味で汎-PANを冠した。
そこで、
無文字時代の言語精神をつたえる
古言を、飛鳥以降、現代のわたくしたちの対象言語・一般自然言語までを規定するものとして、つまり、その表現法や、表記法のし方、また、その形態、言語間の関係、それらすべてのはたらきを規範するものとして、汎メタ言語[Panmetalanguage]としてのはたらきで見ていく。

言挙げせぬ国のメタフィジカ
ITにおけるメタデータは、データを意味づけるデータという意味である。ここで、自然言語を意味づけるメタ言語とは、メタデータと同じ仕組みである。メタデータの作成には、当該ジャンル、ここでは文学、思想、歴史、自然現象の様々な主題を分類し捨象し、メタ概念へと抽象、定義していくためのその時代にふさわしいオントロジ-の力量が要請される。 その時代、その力量をもった人麻呂も芭蕉も実は、いち歌人、俳諧師の立場を超えて、やまとことばに則った汎メタ化作業をしてきたのだといえる。西欧では、プラトンのもちだすイデアや、カントのいう時空形式にみられるようなメタ範疇のもと、それを規範命題として、その関係のもとに、抽象概念による論理構成で存在を解析していく。その学問をメタフィジカとしての哲学だと定義するならば、わたくしたちの基層にはたらく無文字時代以来の古言を規範として自得し、自然言語意識の在り様をもその思惟領域に捉えて、言語をことばたらしめる記述法や、表記原則などを確定しつつ、そこで獲得したことばの形式のもとに、母語に基づく存在の真相をあきらかにしていった二人の作業というものは、西欧のメタフィジカに相当するものであるといえよう。-その意味で、かれら二人こそわたくしたちの母語精神によるこの国を代表する哲学者なのである。明治以降の輸入哲学は、この国では、抽象概念を排することでしか、そして物・事へ即してしか、ことばは開かれないという、無文字時代以来の規範を-その言語を、彼らも日常語で使用しているにも拘らず-まったく忘却したところで、欧米や古代印度、中国の抽象的思考へ軸足をおき、母語による思索にかえ、おもに翻訳抽象概念を構築してそれを学問と呼んできた。そこで、いきついた西田の「絶対矛盾的自己同一」などは、どれほど、歴史的に限定されたものとして、割り引いて考えてみても、人麻呂や芭蕉の発見した方法、そしてそれをもとに到達し得た彼らの思惟の深さと比較したとき、まったくの空虚、空論にしかみえない。この流れにある学問では今日においてさえも、人麻呂が誇り高く「言挙げせぬ」といったあの、無文字時代からわたくしたちの心性の核をなしてきた思想の意味を深く省察することができていない。それを逆に、欠点であるとして、あるいは、日本語は論理的でないという。また、普遍的な哲学思想が生み出せなかったと嘆く。普遍性へは、また、その評価というものは、自己を相対化する作業とともに、自己の属する母語精神の底を深く穿っていく作業を基礎とする以外には到達できないというのに…。その傾向は、特に敗戦後に顕著となり、かなりバランスのとれた良識ある中村元のような思想家にもみられる。でも、桑原武雄にみる「俳句第二芸術論」が集約するようなそれら西欧に偏った見方の欠点をあげつらうことは、ここではもう、すまい。活字の上とはいえ、いろいろと教えていただき、いまでも尊敬している諸先輩方でもあるのだから…。自分自身だって、戦前戦後を生きていたならば、彼らと同じく、焼け野原となった都市にたたづんだとき、母国語のありかたに疑問をいだき、母語による思索追求をさっぱり捨てて、リトル欧米人の考え方になっていたかもしれない。これらの現象は、やはり、軍事、政治、経済、自然科学技術の面で圧倒的優位性をもった西欧文明に、いやおうなく近代日本が巻き込まれていった際のやむをえない状況下での日本思想史における一時的ねじれ現象と受け取る他ないだろう。でも、本当は、戦とは政治力学の一行使形態にすぎないのであって、戦に負けたから母国語による思索が間違いであったとは、あまりに飛躍しすぎた話である。次元の違う話だ。まして、詩人や思索家が、敗戦により、みづからの言語を卑しめるような現象があったとすれば、実際あったようだし、いまもってそれに類する愚痴をこぼす学者もどきが生息しているようだけど…。それは、彼ら自身の思考資質が、もともとことばの表層面しか観ていなかったということしか意味しない。母語への省察が、欠如したまま、近代を急いだということであろう。
さて、人麻呂以降の万葉歌人や西行、そして芭蕉のあとの与謝蕪村、小林一茶、子規、虚子は多少の表記工夫はあったとしても、自覚的にその汎メタ化作業をしたわけではない。あくまで、二人が用意した形式-言挙げせぬ国のメタフィジカ-のなかで作品づくりをしただけである。実は汎メタな視点は、日本文芸史上では、人麻呂と芭蕉のこの二人しかつくりだしていないのではないだろうかと思われる。ふたりだけが自己を解体しつつ、汎メタ視点の導入の形式を提供してきた。そして後塵を拝したのが、その他大勢の歌人・俳人なのである。彼らはこの二人が作った「メタ手法」に没入してきただけであるといえる。その意味では、人麻呂と芭蕉の作品自体が活きたままに、抽象概念化された西欧のカテゴリー文法に替わるこの国の規範文法としてあると言い換えてみることも可能だろう。


★言挙げ異聞★
人麻呂は、言挙げせぬ国において、古言の汎メタ言語機能を十二分に自得したうえで、古言の規範を逆手に、その規範に新しい形式を付与できるという精神の自由度を意識したうえで、あへて言挙げをする。吾がする。と言い得たのだった。芭蕉は神秘性がなくなった時代のシリアスをもどき=汎メタ化する究極のオタクであろう。そこで獲得したあたらしいかるみの境地から、さらに奥の細道へ西行おっかけのコスプレ行為へと及んだ。いまのコスプレの走りであり、大先輩である。コスプレは他者になる…ということだ。「個人の物語り」の解体により,自己の物語りを失った人麻呂と芭蕉が自覚的に物語りに乗っかろうとする行為だといえよう。
個人の物語りを解体してその中で二人は与えられた物語りを演じなければいけない…ということだ。飛鳥の神話がくづれ、「個人の物語り」の解体により,自己の物語りを失った人麻呂が、そして、元禄の世にこれまでの社会関係での自己規定が通用できなくなり、あたらしい物語を自身が用意した。個人や国家の物語が解体された時代であったのだ。…という現在状況は「今更物語りには入っていけない…」という現在人としての人麻呂や芭蕉の共通の心情であった。



            人麻呂の場合


○しばらく、人麻呂の歌をみてみよう。

雑歌
近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌


玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも

反歌 (二首)

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎(からさき)さきくあれど
                           大宮人の船待ちかねつ

楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

やすみしし 我が大君の きこしめす 天(あめ)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺(のへ)に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激(みなそそ)く 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも

反歌

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の
                   絶ゆることなくまたかへり見む

…と、ここまで大宮人の「おおきな物語り」の解体を歌う人麻呂。
と同時に、詩人としての自己の物語りの喪失を体験した人麻呂は、言挙げせぬ国において、古言の汎メタ言語機能を十二分に自得したうえで、その規範の核としてはたらく古言、ことに、テ・ニ・ヲ・ハという助詞や助動詞へ、簡単な表音文字としての漢字を対応させて、日本語表記へ革新的な形式を付与していった。の平かなへと発展する万葉仮名表記だ。たとえば、

 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

である。平かなにいたる、漢字を表意文字と表音文字に使い分けるこの作業というものは、たんなる照らし合わせの作業ではすまされない。対象言語にフィックスされた視点から、その所与の自然言語を
対象的に観ていくメタ視点へのあたらしい意識への飛躍が不可欠となる。それが、メタ視点、つまり、人麻呂にとっての「吾」の発動であったと思われる。あへて「吾」を言挙げすることにより、歌の言葉を唐詩へ対抗できるものとしようとした。それが詩人としての人麻呂の自由度というものでもある。その自由さゆえに、あへて言挙げをする。吾がする。と高らかに、のびやかに言い得たのだった。 それは、千年後の芭蕉の自己解体作業が、もどき、かるみ、さびというメタそのものの視点からの日本詩歌の再構築への仕事へとつながったように、人麻呂にあっては、言挙げせぬ国の他者であった「吾」へとメタ的な変身をとげることで、初期歌謡の俗謡形態から一歩すすんだ洗練した詩歌表現としての万葉集の歌の基本表記を定着させるというあらたな仕事をうみだしたのだ。

○また、一度、汎メタ言語機能を人麻呂で説明すれば、

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
 然れども 言挙げぞ吾(あ)がする 言幸く ま幸くませと
 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと
 五百重波(いほへなみ)* 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする


( - この場合、人麻呂は反語的に表現しているので、吾の言挙げが素直な自然言語としての対象言語となる。そこに対して言挙げせぬという視点が古言の規範であるメタ言語となる)第一は、対象世界のなかの通常表明のことば。 第二は、対象世界から抜け出して、自分の言語活動を対象界に回したその表明についての自意識のことばであり、 この言語の流れが生じて、 メタ言語が対象言語を操る立場にたって、二重構造になることで、第一言語の対象にフィックスされた視点から開放される。伝統をふまえながらも、所与の状況のなかで、対象にしばられながらも、あたらしい形式をそなえることで自由を獲得しているのである。人麻呂の崇高なのびやかさは、この古言の規範をメタ化として自得し、そこへふさわしい形式を自由にあたえることができたところにある。それは万葉歌人のなかでも秀でていた中国詩歌への素養と、無文字時代の言語精神に根差してある自己をだれよりも深く自得し得た才能からきているものとおもわれる。




           芭蕉の場合

  ★奥の細道秘話

奥の細道は、その物語りに乗っかろうとするコスプレ行為として読み取れる。個人の物語りを解体しつつ、その奥の細道で古言の規範をメタ言語とすることで、現在を再解釈し、自身が与えた物語を演じなければいけなかったということだ。


○芭蕉が死に臨んで詠んだ

  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

この字余り「で」という切れ字は、汎メタ言語としての「で」であり、その「で」は、一般対象言語意識からわたくしたちを一挙に、共時的な無文字時代言語精神の流れへと回帰させ、永遠のゲームへと誘うところの一字の「で」である。


もはやシリアスな物語が喪失したという時代への自覚のもと、自己解体をし続けていった芭蕉の作業は、おもくれをもどき、かるみ、さびというメタそのものの視点を導入することで、それが日本詩歌の再構築の仕事へとつながっていった。それはまた、西行のおっかけとして、奥の細道へのコスプレな旅立ちでもあった。
そこで、特筆すべきは、切れ字の発見である。切れ字とは、「無」や「空」に替わる母語におけるゼロポイントである。(文法考で詳細予定)芭蕉のこのゼロポイントは、文字通り、芭蕉という俳号へのネーミングからして、それは、唯識の一説から採ったものであると確信するのであるが、(唯識からというのは、もしかして、記憶違いかもしれない。あとで、確認する)が、そのあたりの関連仏典にある記載から芭蕉という用語を借用したのは、その時の直感によって確実だとおもっている)、状況証拠的にも、一頂のもとでの芭蕉の参禅の時期と、それを境にした前後作品の質的変貌、そして、芭蕉への改名が、一致していることから、自分は、そう信じているのである。いづれにしても、このゼロポイントという、言葉をことば足らしめる「切れ字」という装置の発見により、たった一字で古言の規範力を喚起させる自由がうまれ、桃青は、またあたらしい他者、芭蕉へとコスプレして未知の陸奥の地の旅人となり、いまも、冬枯れの古事の原野をひとり旅しているのである。




           結論
○(推論)
商業主義的なメディアに主導されるかたちではあるが、世界に先駆けてこのメタ化が急速に進行している擬似国家日本においては、
旧来の大きな物語は、もはや成立し得ない。しかし、この状況はたいへん好ましいものだといえる。このメタ化の潮流は、ふたたびだれか、優れたひとりのちからで、表層ではなく、自分たちの根にある古言の無文字時代の言語規範を汎メタ言語として、あたらしく、自由に展開さえすることができれば社会もそれを難なく受容していける状況にあるということを意味しているのだから。いつか、気がつかないうちに、商業主義的で世俗的なコスプレファッションの域をかるがると越えてしまう時がやってくるだろう。自由な立ち位置がとれて、オタク精神をきわめていく者は、日本語を話す誰もがつぎの時代の人麻呂、芭蕉となる可能性を秘めているのだ。

古言を汎メタ言語とすることに長けた人麻呂と芭蕉は、多くの伝説をつくりあげてきた。二人以外の歌人、俳諧師たちは、二人が定立した作品世界の設定まるごと、シリアスな世界であるとして、この伝説にのめりこんでいったはづだ。その結果が、万葉集であり、また、現代俳句につながる蕉風俳諧である。

○オープン系という自由
自由を自得した二人は、万能細胞のようなものだ。つねに、完成形の一歩手前の未然状態である自己の自由をのびのびと謳歌してきた。それは彼らが、言語、文法、理論、表現形式、自己というものを記述可能な古言という汎メタ言語機能を操る術を獲得していたからに他ならない。これからの自己が他者としての自己を規定できるがゆえに、既存の対象言語の規定から自由に、どういうコスプレも可能であったのだ。汎メタであるということは、いかような発想にでも到達できる精神状態に、そしてフィックス以前の自分に立ち位置にいつでも戻れるということでもある。それは外部に対して、オープンであることを意味する。人麻呂と芭蕉は、自らをメタな状態にしてあらゆる他者に変身していくことのできる究極のオタクであり、レイヤーであったのだ。

○●補足
ここで、設定した汎メタ言語[Panmetalanguage]なる視点は、あくまで作業仮説であり、最終的には廃棄されなければならない。現代西欧言語学理論がうみだしメタなる概念とその視点は、コンピュータという、それだけでは木偶の棒なるものに、多言語時代の人間のことばを了解させる必要から、幅広い応用がはじまりだした。もともと、ことばの核心に迫っていけるような視点ではなく、概念の単純な階層化で構成された、たんなる比較整理のための便宜上の視点だ。。ただ、このIT時代におけるメタ視点の導入は、ジブンも含めて、もはや原始的なことばのちからを喚起できない現代人の、ものごとの理解の補助機能として、そこに局部的な妥当性をみていくことは許されよう。おもしろいのは、こうしたメタ概念を使うことでしか、思惟できなくなった人間の意識である。それはまさに、彼のこころが、コンピュータという木偶の棒にちかづいているということを意味している。

                  
実際、ジブンも電子主体へとコスプレして、深夜の24時間マックで無限サイトを更新し続ける毎日だ。いつの間にか、マックが仕事場兼生活の根城となった。ディスカウントショップで求めたコーヒー券60円一枚で5時間ねばる.。こうした電子主体のジブンというものはグロテスクな異物でもある。最近の事件でみるように、人を殺めたその日のディナーをブログで更新する異常心理はよく理解できる。電子主体へコスプレしたジブンも「毒を食らわば皿まで」と、きょうも電子のひらく原野を明けがたまでの旅をする。(ところが、根城にしていたマックは、18年間の営業を今月六月末で止めて、閉店だという・・・ム・・ム・ぅン!・・・!

 

                 
                   うたくらの根城 A.M3:30 2010.4.10マック

 

 


      カキカケ  2010年 3月23日より 断続カキコ。



              付録


               芭蕉


 猿蓑集  
  300 299 298 297 296 295 294 293 292 291
  290 289 288 287 286 285 284 283 282 281

  続猿蓑集 
  280 279 278 277 276 275 274 273 272 271       
  270 269 267 265 264 263 262 261

  野ざらし紀行
  260 258 257 256 255 254 253 252 251

  他 
  002 004

 


             柿本人麻呂


   


羇旅歌


柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌 (七首)

玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ(3-250)

淡路の野島の崎の浜風に妹(いも)が結びし紐吹き返す(3-251)

荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人(あま)とか見らむ旅行く我を(3-252)

稲日野(いなびの)も行き過ぎかてに思へれば
                 心恋しき加古(かこ)の島見ゆ
(3-253)

灯火(ともしび)の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や
                 榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
(3-254)

天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば
                 明石の門(と)より大和島見ゆ
(3-255)

飼飯(けひ)の海の庭よくあらし刈薦(かりこも)の
                  乱れて出づ見ゆ海人の釣船
(3-256)

柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治川の辺(ほとり)に至りて作る歌一首

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも

柿本朝臣人麻呂の歌一首

淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海路にして作る歌二首

名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は

大君の遠の朝廷(みかど)とあり通ふ
                   島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ

相聞


柿本朝臣人麻呂の歌

み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす
             心は思へど直(ただ)に逢はぬかも
(4-496)

柿本朝臣人麻呂の歌三首

をとめらが袖振る山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひき我は(4-501)

夏野ゆく牡鹿(をしか)の角の束の間も妹が心を忘れて思へや(4-502)

玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家の妹に
                   物言はず来(き)にて思ひかねつも
(4-503)

柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌二首 并せて短歌

石見(いはみ)の海(うみ) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和田津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹(いも)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに よろづたび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡けこの山(2-131)


反歌二首

石見のや高角山(たかつのやま)の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(2-132)

小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば(2-133)


つのさはふ 石見(いはみ)の海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる  海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒(ありそ)にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜(よ)は 幾だもあらず はふ蔦の 別れし来れば 肝向(きもむ)かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大舟の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝(あまづた)ふ 入日さしぬれ 大夫(ますらを)と 思へる吾も 敷栲(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ(2-135)

反歌二首

青駒(あをこま)が足掻(あがき)を速み雲居にぞ
                        妹があたりを過ぎて来にける
(2-136)

秋山に落つる黄葉(もみちば)しましくは
                    な散り乱(まが)ひそ妹があたり見む
(2-137)


雑歌
近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも(1-29)

反歌 (二首)


楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎(からさき)さきくあれど
                           大宮人の船待ちかねつ
(1-30)

楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31)

吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌


やすみしし 我が大君の きこしめす 天(あめ)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺(のへ)に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激(みなそそ)く 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも(1-36)

反歌

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)


やすみしし 我が大君 神(かむ)ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり ゆきそふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へまつると 上(かみ)つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕(つか)ふる 神の御代かも(1-38)

反歌


山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(1-39)

伊勢の国に幸(いでま)す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌 (三首)

嗚呼見(あみ)の浦に船(ふな)乗りすらむをとめらが
                      玉裳(たまも)の裾に潮満つらむか
(1-40)

釧(くしろ)つく答志(たふし)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(1-41)

潮騒に伊良虞(いらご)の島辺榜ぐ船に妹(いも)乗るらむか荒き島廻(しまみ)を(1-42)

軽皇子、安騎の野に宿します時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌


やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真木立つ 荒き山道(やまぢ)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎(あき)の大野に 旗すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(1-45)


短歌 (四首)


安騎(あき)の野に宿る旅人うち靡きいも寝(ぬ)らめやもいにしへ思ふに(1-46)

ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とぞ来し(1-47)

東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)

日並(ひなみし)の皇子の命(みこと)の馬並(な)めて御狩立たしし時は来向ふ(1-49)


天皇の雷岳(いかづちのをか)に御遊(あそ)びたまひし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首


大君は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも(3-235)

長皇子の猟路(かりぢ)の池に遊びし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌


やすみしし 我が大君 高光る 我が日の皇子(みこ)の 馬並(な)めて 御狩立たせる 若薦(わかこも)を 猟路の小野に 鹿(しし)こそば い匍ひ拝(をろが)め 鶉(うづら)こそ い匍ひ廻(もとほ)れ 鹿(しし)じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひもとほり かしこみと 仕(つか)へまつりて ひさかたの 天(あめ)見るごとく 真澄鏡(まそかがみ) 仰(あふ)ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも(3-239)

反歌一首

ひさかたの天(あめ)行く月を網(あみ)に刺し我が大君は蓋(きぬがさ)にせり(3-240)

或本の反歌一首

大君は神にしませば真木の立つ荒山中(あらやまなか)に海を成すかも(3-241)

七夕の歌一首

大船に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士(をとこ)(15-3611)

右は柿本朝臣人麻呂の歌。

挽歌


日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本人麻呂の作る歌一首并せて短歌

天地(あめつち)の 初めの時し ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづがみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神分(かむはか)り はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂(みづほ)の国を 天地(あめつち)の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かきわけて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)り 上りいましぬ 我が大君 皇子の命(みこと)の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱 太敷きいまし 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子(みこ)の宮人(みやびと) ゆくへ知らずも(2-167)

反歌二首

ひさかたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも(2-168)

あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)

或本の歌一首

島の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜(かづ)かず(2-170)

柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と忍壁皇子(おさかべのみこ)とに献る歌一首 并せて短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生(おふる玉藻は 下(しもつ瀬に 流れ触(ふ)らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 剣大刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂(たまだれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉裳(たまも)は湿(ひ)づち 夕霧に 衣(ころも)は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君ゆゑ(2-194)

反歌一首

敷栲(しきたへ)の袖交(か)へし君玉垂(たまだれ)の越智野過ぎゆくまたも逢はめやも(2-195)

右は、或本には、「河島皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」といふ。日本紀には「朱鳥の五年辛卯の秋九月、己巳の朔の丁丑に、浄大参川島薨ず」といふ。


高市皇子の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天の下 治めたまひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと まつろはぬ 国を治めと 皇子(みこ)ながら 任(ま)けたまへば 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上(ささ)げたる 幡(はた)の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に 旋風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きのかしこく 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来(きた)れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく 去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂(みづほ)の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿(おほとの)を 振りさけ見つつ 鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)りいませて あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて 神(かむ)ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具(かぐ)山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天(あめ)のごと 振りさけ見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏(かしこ)くあれども(2-199)

短歌二首

ひさかたの天(あめ)知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋ひわたるかも(2-200)

埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人(とねり)は惑(まと)ふ(2-201)

或書の反歌一首

哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が大君は高日知らしぬ(2-202)


明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋(いはばし)渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生(お)ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生(は)ふる 打橋に 生(お)ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生(は)ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こ)やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背(そむ)きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折り挿頭(かざ)し 秋立てば 黄葉(もみちば)挿頭し 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月(もちづき)の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出(い)でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥(あさとり)の 通はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふづつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰(なぐさ)もる 心もあらず そこ故に せむすべ知れや 音(おと)のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思(しの)ひ行かむ 御名(みな)に懸かせる 明日香川 万代(よろづよ)までに はしきやし 我が大君の 形見にここを(2-196)

短歌二首

明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし(2-197)

明日香川明日さへ見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ(2-198)

柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血(きふけつ)哀慟(あいどう)して作る歌二首 并せて短歌

天飛ぶや 軽の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠(くもがく)るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉づさの 使の言へば 梓弓(あづさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 音(おと)のみを 聞きてありえねば 我(あ)が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子(わぎもこ)が やまず出(い)で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行(ゆ)かねば すべをなみ 妹(いも)が名呼びて 袖ぞ振りつる(2-207)

短歌二首

秋山の黄葉(もみち)を茂み惑(まと)ひぬる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも(2-208)

黄葉(もみちば)の散りぬるなへに玉づさの使を見れば逢ひし日思ほゆ(2-209)


うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出(はしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世の中を 背(そむ)きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝発(だ)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与(あた)ふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕付(づ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(2-210)

短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年離(さか)る(2-211)

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし(2-212)

或本の歌に曰く

家に来て我が屋を見れば玉床の外(ほか)に向きけり妹が木枕(こまくら)(2-216)

吉備津釆女(きびつのうねめ)が死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

秋山の したへる妹(いも) なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕へは 消(き)ゆといへ 霧こそば 夕へに立ちて 朝(あした)は 失すといへ 梓弓 音聞く我も 髣髴(おほ)に見し こと悔しきを 敷栲の 手枕(たまくら)まきて 剣(つるぎ)大刀(たち) 身に添へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと(2-217)

短歌二首

楽浪(ささなみ)の志賀津の子らが罷(まか)り道(ぢ)の川瀬の道を見れば寂(さぶ)しも(2-218)

そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しくは今ぞ悔しき(2-219)

讃岐の狭岑(さみね)の島にして、石の中の死人(しにひと)を見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 我が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に 廬りて見れば 波の音(おと)の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床(あらとこ)に 自臥(ころふ)す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは(2-220)

反歌二首

妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや(2-221)

沖つ波来寄る荒礒(ありそ)を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも(2-222)

柿本朝臣人麻呂、香具山の屍(かばね)を見て悲慟(ひどう)して作る歌一首

草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か国忘れたる家待たまくに(3-426)

土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

こもりくの泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ(3-428)

溺れ死にし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首

山の際(ま)ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく(3-429)

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ(3-430)

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首

鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(2-223)

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―人麻呂歌集歌―

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天を詠む

天(あめ)の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ(7-1068)

雲を詠む

あしひきの山河(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月(ゆつき)が岳(たけ)に雲立ち渡る(7-1088)

山を詠む

鳴神(なるかみ)の音のみ聞きし巻向(まきむく)の檜原(ひばら)の山を今日見つるかも(7-1092)

河を詠む

ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾(と)き(7-1101)

葉を詠む(二首)

古(いにしへ)にありけむ人も我(あ)がごとか三輪の檜原(ひばら)に挿頭(かざし)折りけむ(7-1118)

ゆく川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は(7-1119)

覊旅にて詠む

大穴牟遅(おほなむぢ)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背の山は見らくしよしも(7-1247)

所に就けて思ひを発ぶ

巻向の山辺(やまへ)響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)の如し世の人吾等(われ)は(7-1269)

行路

遠くありて雲居に見ゆる妹(いも)が家(いへ)に早く至らむ歩め黒駒(7-1271)

物に寄せて思ひを発ぶ 旋頭歌 (四首)

夏蔭の妻屋の下に衣(きぬ)裁(た)つ我妹(わぎも) うら設(ま)けて我(あ)がため裁たばやや大(おほ)に裁て(7-1278)

梯立(はしたて)の倉梯川(くらはしがは)の石(いは)の橋はも 男盛(をさかり)に吾が渡してし石の橋はも(7-1283)

春日(はるひ)すら田に立ち疲る君は悲しも 若草の妻なき君が田に立ち疲る(7-1285)

青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも 石(いは)走る淡海県(あふみあがた)の物語せむ(7-1287)

木に寄す

天雲(あまくも)のたなびく山に隠(こも)りたる我(あ)が下心木の葉知るらむ(7-1304)

花に寄す

この山の黄葉(もみち)の下の花を我(あれ)はつはつに見てなほ恋ひにけり(7-1306)

弓削皇子に献る歌

さ夜中と夜は更けぬらし雁が音(ね)の聞こゆる空を月渡る見ゆ(9-1701)

舎人皇子に献る歌

泊瀬(はつせ)川夕渡り来て我妹子(わぎもこ)が家の金門(かなど)に近づきにけり(9-1775)

春の雑歌

久かたの天の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも(10-1812)

秋の相聞

誰(た)そ彼と我をな問ひそ九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つ吾を(10-2240)

冬の雑歌

巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪流る(10-2314)

相聞 旋頭歌 (二首)

新室(にひむろ)の壁草刈りにいましたまはね 草のごと寄り合ふ処女(をとめ)は君がまにまに(11-2351)

新室を踏み鎮(しづ)む子が手玉(たたま)鳴らすも 玉のごと照らせる君を内へと申せ(11-2352)

正に心緒を述ぶ歌 (三首)

たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに(11-2368)

人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも(11-2369)

朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに(11-2394)

物に寄せて思ひを陳ぶ歌 (三首)

月見れば国は同(おや)じそ山隔(へな)り愛(うつく)し妹は隔りたるかも(11-2420)

大野らに小雨降りしく木(こ)のもとに時と寄り来(こ)ね我(あ)が思ふ人(11-2457)

遠き妹が振りさけ見つつ偲ふらむこの月の面(おも)に雲な棚引き(11-2460)



柿本朝臣人麿が歌集(うたのふみ)の歌に曰く

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
 然れども 言挙げぞ吾(あ)がする 言幸く ま幸くませと
 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと
 五百重波(いほへなみ)* 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする*(13-3253)

反し歌

磯城島の大和の国は言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ(13-3254)

 

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―付録:勅撰集に採られた伝人麻呂作歌より―

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奈良のみかど龍田河に紅葉御覧じに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて

龍田川もみち葉ながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(拾遺219)

題知らず

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん(拾遺778)[百]

大津の宮の荒れて侍りけるを見て

さざなみや近江(あふみ)の宮は名のみして霞たなびき宮木守(みやぎもり)なし(拾遺483)

題知らず

奥山の岩垣沼のみごもりに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ(拾遺661)


我が背子を我が恋ひをれば我が宿の草さへ思ひうら枯れにけり(拾遺845)


朝寝髪われはけづらじうつくしき人の手枕ふれてしものを(拾遺849)


たらちねの親の飼ふ蚕(こ)の繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずて(拾遺895)


恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉ほこの道ゆき人にことづてもなき(拾遺937)


荒ち男(を)の狩る矢のさきに立つ鹿もいと我ばかり物は思はじ(拾遺954)


なく声をえやは忍ばぬほととぎす初卯の花の影にかくれて(新古190)


さを鹿のいる野のすすき初尾花いつしかいもが手枕にせむ(新古346)


秋萩のさき散る野辺の夕露にぬれつつ来ませ夜はふけぬとも(新古333)


秋されば雁の羽風に霜ふりてさむき夜な夜な時雨さへふる(新古458)


垣ほなる荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなへに雁ぞなくなる(新古497)


秋風に山とびこゆる雁がねのいや遠ざかり雲がくれつつ(新古498)


やたの野に浅茅色づくあらち山峯のあは雪さむくぞあるらし(新古657)


みかりするかりはの小野の楢柴のなれはまさらで恋ぞまされる(新古1050)

奈良のみかどををさめ奉りけるをみて

久方のあめにしをるる君ゆゑに月日も知らで恋ひ渡るらむ(新古849)


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万葉集より、人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集を
出典とする歌25首、計100首を載せる。また付録として、拾遺集と
新古今集に人麻呂作として採られた歌より18首を抜萃して併載。